ひさしぶりに風邪をひいた。
兆候はあった。 きのう部活の練習終わりに、テニス用具をかたづけていたら「ゴホン、ゴホン」と数回、へんな咳をしたのだ。そのときは用具室にまう埃のせいかな?とおもったのだけれど、それにしても喉の奥がぴりぴりする、やな感覚の咳だった。一緒に用具をはこんでくれていた柳が「大丈夫か?」と心配してくれた。八の字によせられた柳の眉根がおかしくて(めったにみられないから)ちゃかして、その場は笑いとばした。帰りに柳からのど飴をいっこもらった。それを舐めながら帰った。わたす時に柳はまだ剣呑に眉根をよせていて、このひとは心配性だなあ、とありがたくおもった。だるくなるから薬は飲まずに、生姜湯にきゅっとしぼったレモンと蜂蜜をいれて、それを飲んではやく寝た。



そうして今朝、わたしの世界は反転しながら弧を描いている。
熱につつまれて。

「38度.......5分かあ.....」

デジタルの数字がならぶ体温計を口からはずして、ぽいっと横にほうって、ベッドにつっぷした。家の中は、しんとしている。父と母は前から計画していた旅行で、一週間ほど家をあけている。幸か不幸か、こんな時にいちばん騒いでくれるひとたちがいなくて、わたしはホッとしている。頭はいたいし、ひとりは心細いけれど、好きなひとたちが気遣ってくれる気持ちは甘くて、ときどきちょっと重い。階下までいき、電話で担任の先生に事情を説明して、きょうは休ませてもらった、ついでに幸村に「きょうは部活いけない、ごめん」とメールした。すぐに「お大事に」と簡素な返事がかえってきた。ちょっとしてから、ブン太から「マネージャーが風邪をひくとはたるんどるっ!(真田のまーねー)ばーか、はやく治せよー」と写真つきでメールがきた。3Bの教室をバックにジャッカルと笑顔だった。隅っこで、ひょいっと仁王の手だけがピースサインで写っている。笑った。 ふと、柳にもメールしようかな?とおもった。数文字うちかけて、やめた。昨日の今日で、それみたことか、と言われそうだったし、幸村から話はすでにいっているだろう。眉間にしわをよせたクールな呆れ顔が脳裏にうかんだ。


暖かく着こんで、部屋の暖房をONにしてベッドにもぐりこんだ。熱のせいで思考は、ぼおっとしているけれど、眠くはない。床につみあげられたままの本の中から、写真集をとりだしてシーツにくるまったまま、ぱらぱらと開いた。南国の島の美しい風景が4A判にひろがる。文字をおわなくてもいいからラクだった。島のひとたちが着る極彩色の衣装と、白い波がうちよせられる海は、どこまでも澄んでいて、いいなあ、こんなところ旅してみたいなあ、とぼんやりおもった。一枚、一枚、写真集をめくる腕がおもたくなってきた頃、ゆっくり、とろりとした眠りが訪れ、わたしは目をつぶった。



* * *




ピピピッという着信音で覚醒した、うっすらと体に浮遊感があって、部屋の中が異様に暑い。目をこらせばあたりは薄暗かった。もう夕方?やばい、熱あがったのかな。おもうように腕がうごかなくて、一回ハデに携帯を床におとしてから、なんとかひろって耳につけた。冷やりとした声がした。

?」

柳だった。


「ん.......もしもし」

「寝ていたのか」

「うーん..........」

「つらそうだな、大丈夫か?」

「たぶん.....」

「宿題用のプリントを持って来た、玄関まで来れそうか?」

「えーと、柳いま....うちの家の前?」

「ああ、そうだ」

「まって.....今起き...........いったっ!」

視界が一回転。 頭がふらふらしてきもちわるい。携帯をもったまま、わたしはぐったりと倒れこんでしまった。むこう側から「?おい、どうした?」と急ぐ声がきこえた。うう、と唸っていたら「..........ッ」と音がした。え、舌打ち?


「動くな、そのまま待っていろ」

電話がきれた。


しばらくして、ガザガザと葉音がふるえ、ベランダで変な音がした。え、なに?柳、なにしてんの?まさか。こわごわとシーツを体にまきつけて、なんとか窓際まで這っていった。コンコン、とガラス窓を叩かれ、わたしはびっくりする。


「柳!?」


うちのベランダ横の大木を背に、欄干に足をかけて柳がいた。ガラス越しに「あ・け・て・く・れ」と、口がいっている。あわてて開ければ、ざぁと凍える冷気とともに柳がはいってきた。

「ここ二階だよ?登ってきたの!?」

「ああ」

ひらりと欄干をくぐった柳はちょっとかっこよかった。 おもわずみつめた。


「ん?どうした?」

「...........なんでもない」


背の高い姿をみあげて、うちのクラスの女子が騒いでいたのをおもいだしだ。そういえばこのひと、元々かっこよかったんだ。 「暑いな」部屋にはいって早々、柳が眉をしかめた。暖房が強のままだった。ぼんやりとリモコンをさがそうとしたら、それをさえぎって柳がおでこに手を触れた。どきっとした。そのまんまほっぺたにも手をあてられた。柳がため息をつく。


「熱が高い」

「う、うん」

「脱水症状一歩手前、という所か」

「ええ!?」

「寝ていろ」


かわりに暖房を切って、柳はかかえていた鞄の中からミネラルウォーターや炭酸水などのボトルをとりだした。礼を言って、ベッドにすわって、もらったミネラルウォーターを飲んだ。すぅーと頭がひえて、だいぶ具合が悪くなっていたことを実感する。お水をごくごく飲むわたしを、柳はだまってみてた。ものめずらしげに室内を見渡さないのが柳らしかった。

「なにこれ、習ったっけ?」

「今日でた所だ」

わたされた宿題用のプリントはちんぷんかんぷんだった。きょうの授業だったらぜんぜんわかんないよ、と投げ出したら、しらっと「そうだろうな」と柳に言われた。ふつうに、そのまま炭酸水のボトルをあけて飲んでいる。あれ?それわたし用じゃなかったんだ?なんだかひとの部屋で寛いでいる柳に、わたしもいーやとなって、ごろんとベッドに寝転がった。ぐるぐると毛布とシーツの塊になって、丸くなっているわたしを「、蓑虫みたいだぞ」と柳は笑って嘲る。クッションをなげたら軽々とキャッチされた。その健康そうな顔に冗談のひとつも言ってやりたくなった。

「風邪っぴきのかわりに柳がプリントやってよ」

「良いぞ」

きゅっとボトルのキャップをしめて、柳が言った。
あれ?いいの?

「ただし、横に解説を書いておくから、あとでもう一度自分で答えを解いてみろ」

「う、うん」

「風邪が治ってからな」

「はーい」


素直に返事をしたら、柳が満足そうに笑った。鞄を台座がわりにして、ペンをもった柳が答えを解いてゆく。造作もなさそうだった。クッションを背に、長い足をくんでわたしの部屋で、宿題をやっつけてゆく柳はめずらしくて、わたしは毛布にくるまったまま、じっとそれを見ていた。ペン先がうごく度に、うつむく柳の切りそろえられた細い前髪も幾筋か、さらりさらりと揺れる。きれいだった。ゆっくりと火照る瞼をしばたたかせて、わたしは呟いた。


「柳ありがと、優しいね」


ちらっと視線をあげて、柳がこっちを見た。
そうしてあたりまえみたいに言った。


「お前にだけだ」




ん?


なんか、いま
さらっとすごいコト言わなかった?このひと?

毛布の影で、わたしは身をちぢこませる。自分でひきだした台詞のくせに、恥ずかしくなる。とりあえず「こ、こーえーです.......」とかてきとーなコトを言っておいて、ガバっと頭から毛布をかぶった。そんなわたしを見て、フッ....と柳はわらった。その様子がまたさまになっていて、くやしい。いま部屋の中で、柳と二人っきりなんだな、と急に意識した。

部屋には柳がペンで紙に文字を刻む、静かな音がひびき、それを子守歌がわりに聴きながら、やわらかい毛布の中で、わたしはうとうとしだした。熱もあるし、鼻もきかないし、感覚もボケボケだけれど、そんな最大に弱っているときに、誰かが側にいるということは、いいな、とわたしはおもった。すごく安心する。 なんで「気遣いはちょっと重い」なんておもったんだろう?わがままだったなあ。やさしくされるのがこんなにいいものだったなんて。でも、もしかしたらこれもぜんぶ柳だから、かもしれない。柳だから、こんなに上等な気持ちにさせてくれるんだ。

どれぐらいの時間がたっただろうか、今までになかった、だるい熱さが体全体をつつむ、すぅ、すぅー、と呼吸が不規則に早く、苦しくなる、頭が重くて痛い。これが風邪のヤマだとわかっていた。これをこえれば、ずっとラクになる。顔を枕につけて、苦しそうに息をするわたしをみて、ペンと紙をおいて柳が側にやってきた。手をのばし、顔にかかる汗ばんだ髪を一筋、はらってくれた。やさしい手つきだった。薄目をあけて、助けをもとめるように柳をみつめた。柳が囁く。


「つらいか......?」

そういう柳の方がよっぽどつらそうな顔をしていた。
素直に、コクンとうなづいたら優しい目つきになった。


「俺にうつせ」


どうやって、と聞きたかったけれど、なんとなくわかっていた。なんで柳がさっと二階まで登って、すぐ駆けつけてくれたのかも、この瞬間、わかった気がした。苦しい息で、体が資本のスポーツマンがそんなコトいっちゃいけないよ、と言ったら、柳はうすく笑った。その笑顔が存外にかわいくて、心をきめて、ぎゅっとわたしは瞼をつぶる。ゆっくりと、火照るくちびるに、キスが落ちる。 ちゅっ、と一回。



「.............柳」

「なんだ?」

「..........そのまま襲わないでね」

「そうか、その手があったな」

「........っ!」

「安心しろ、しないさ」

「ホントに?」

「ああ、今はな」


そうして、もう一回頬にもキスが落ちた。


その日はわたしの呼吸がラクになるまで、柳はずっと側にいて、頭を撫でてくれていた。



* * *



すっかり日も暮れた頃、一通のメールが携帯に届く。


>>よーマネージャー死んでるかー?なんならこの丸井さまが看病にいってやってもいいんだぜぃ?そうだ、暇あったら柳にメールしとけよーなんか今朝連絡がないって拗ねてたぞー


>>丸井さまへ、柳ならいまわたしの部屋にいるよ。 PS、看病はまにあってます。


笑顔マークをつけて返したら、夜まで着信音が鳴り止まなかった。







110426 風邪をひくのもたまにはいいよね。